情報は、暗闇を照らす光

いま、自分はまっ暗な闇の中にいる、そう想像してみてください。前後も見えない深い闇の中にいる。そんな状況に置かれたら、誰もが不安になりますよね。心細くなりますよね。実はそれと同じことが、子どもが不登校になった親には訪れるのです。

とにかく先が見えない。これからどうすればいいのかが分からない。前後の見えない闇の中で、不安や心配ばかりがつのっていきます。文字通り「お先まっ暗」の状態に置かれてしまうのです。

そんなとき、役立つのは「情報」です。情報は、暗闇を照らす光になります。

たとえば本です。昔は少なかったのですが、いまは不登校関連の書籍がいっぱい出版されています。私の本を出してくださっている「びーんずネット」さんからもいっぱい出ていますが、他にもたくさんの良書があり、たいへん参考になります。

本が苦手という人には、漫画がおすすめです。不登校の当事者だった棚園正一さんの漫画などは特におすすめ。また、「かがみの孤城」のような不登校を題材にしたアニメの映画もあるし、NHKのテレビ番組でもときどき不登校が特集されます。

ネットを探せば、不登校のオンラインセミナーや、定期的に開催されるオンラインコミニティがあります。地域によってはリアルな不登校親の会もあるし、居場所を開設しているところもあります。そういう場所には、不登校を経験した先輩保護者がいて、いろいろ親切に教えてくれます。

最初は何でもいいんです。とにかく手当たりしだい、本なり漫画なりを買い揃え、セミナーに参加して情報を取ってください。情報の量が増えれば増えるほど、闇を照らす光は強くなります。

そして、少しでも前が見えれば、その先どうすればいいか、進むべき道が見えてきます。道が見えてくれば、希望が生まれます。心が軽くなります。心配や不安によって閉ざされていた視界が晴れ、家庭の雰囲気も明るくなってきます。それがまた不登校に悩む子どもに、よい影響を与えるのです。

停電したら、懐中電灯を手にしますよね。ロウソクを灯して、目の前を照らしますよね。不登校で心配になったら、ぜひ「情報」という懐中電灯を手に入れ、目の前を照らしてください。

子どもはいつになったら動き出すのだろう? そんな心配をするヒマがあったら、まずは自分から動きだしましょう。一歩前に進めば、道が開けてきます。進めば進むほど視界が開け、不登校の先が見えてきます。そして、いつしか暗雲のように垂れ込めていた心配や不安は消え、晴れ晴れとした心になっている自分に気がつきます。

そのために、まずは第一歩を踏みだしましょう。勇気を出して!

無理なものは無理

今年の正月は、体調をくずしてさんざんな目にあいました。

年末に風邪をひき、なぜか急に物が飲み込めなくなって、水はおろか、自分の唾も飲み込めなくなりました。水分が一切体に入っていかない。となると心配なのは脱水症状。で、慌てて大病院に駆け込んで診てもらったら、即入院という運びになりました。

とにかく水も飲めないので困りました。このまま飲めなかったらどうしようと、命の心配すらするように。点滴と鼻からの栄養補給がしばらく続き、ようやく物が少し飲み込めるようになったのは、1月8日。ほぼ10日間、点滴と鼻からの栄養補給で命を繋いでいました。

いまは少しよくなり、退院もできたのですが、まだ飲み食いはスムーズにはできません。刻み食という食べやすい食事を、いつか治ることを信じて食べています。

さて、この経験をして思ったのは、「無理なものは無理」ということ。人間、生きていくためには食べなきゃダメということは分かっているのですが、喉が受け付けない。無理に食べようとすると咳き込んで、誤嚥性肺炎の恐れもある。だから無理はせずに、食べられるようになるのを待つしかないのです。

不登校も同じだなぁと思いました。学校に行かなくちゃダメということは分かっているのに、行けない。無理に行こうとすると体調を崩す。そう、「無理なものは無理」なので、無理強いするのは危険なのです。もう、こうなったら休むしかない。そして、実はそれが最善の方法なのです。

もうひとつ思ったのは点滴のこと。不登校の子がゲームやユーチューブにはまるのは、もしかすると点滴と同じじゃないか。あれで心に栄養補給をして、命を繋いでいるのではないか。

親として、たしかにいつまでゲームばかりやっているんだという思いはあるでしょうが、でも、それが心の点滴で、命を繋いでいるのだと思えば、ゲームやスマホを軽々に取りあげる危険性に気づかされます。

心も体と同じです。どこか機能が壊れたら、回復するまでにはそれなりの時間がかかります。無理をすると悪化するので、根気よく回復を待つしかないのです。

そう、無理なものは無理。時間をかけて、じっくりよくなるまで待つ。それが不登校の子にとって、どれだけ大切かということを、みずから体調を崩してみて実感した次第です。

なかなか動き出さない我が子を見て、親として心配になる気持ちは分かりますが、どうか長い目で、根気よく見守ってあげてください。元気なってくれば、子どもの方から自然に動きだしますから。

大切なのは、子どもの元気を保つこと。

「不・登校」と書いて、不登校。嫌な言葉ですよね。でも、よくよく考えると、登校にただ不が付いているだけのこと。学校に行っていないという事実を語っている言葉にすぎません。

でも、実際に、不登校にはそれ以上のネガティブなイメージがつきまといます。なぜなんでしょう。中には子どもの人生が詰んでしまうみたいに思う人もいるみたいです。

確かに学校に行かないことによって生じるデメリットはいくつかあります。まず、「費用」の問題。無料で通える学校を辞め、フリースクール等に通うとそれなりにお金がかかります。

それから「勉強」の問題。学校に行っていればなんだかんだいって子どもは勉強するけれど、家に居たりフリースクールに行ったりすると、学業が遅れ、学歴も取りにくくなります。また、同世代の子との交流がなくなるというのも、親が感じるデメリットの一つでしょう。

このように、子どもの将来にさまざまなデメリットをもたらすため、多くの場合、不登校になると親は慌てて、なんとか子どもを学校に戻そうとします。子どもを叱ったり、なだめたり、無理やり引っ張っていって学校に押しこめようとします。

私自身も親なので、この気持ちはよく分かります。なんとかして学校に戻そうとするのも、子どものためを思ってのことでしょう。でも、ここには親が見落としている最大のデメリットが隠れているのです。それは前述したデメリットよりはるかに大きく、深刻なものです。

そのデメリットとは、「子どもの元気や笑顔がなくなること」です。

嫌がる子どもを無理やり学校に戻そうとすると、子どもの心が壊れていきます。不登校の罪悪感、みんなと同じことができない自分への否定的な思い、敗北感、劣等感、さまざまな辛い思いが子どもの心に襲いかかります。そして、この辛い思いは、親が学校に戻そうとすればするほど増大していきます。

実は、不登校の最大の問題は、子どもが学校に行けないことではなく、学校に行けないことによって生じる子どもの罪悪感や劣等感なのです。だから、親として大切なのは、いかにして子どもに罪悪感や劣等感を抱かせないかということ。子どもの不登校を受け入れて、大丈夫だよと言って励ましてあげることです。

心が元気なら、人間なんだってできます。学校に行かなくても、本人がやる気になれば、学ぶ道はいくらでもあります。フリースクールに行くお金がなくても、家で過ごせばお金はかかりません。友達がいなくても、親と楽しく話せていれば問題はありません。

しかし、子どもの心が壊れたら、これはもう大変です。一度壊れた心は、なかなか元に戻りません。脅すわけではありませんが、自殺をした不登校の子の75%は、一度学校に復帰した子だそうです。学校に戻って辛い思いをして、自らの命を絶ってしまったのです。この事実は、精神科医のレポートにより明らかになりました。

だから、ぜひとも無理やり学校に戻さずに、子どもを叱らずに、行きたくないという子の気持ちを受けとめてあげてほしいと思います。

繰り返しますが、子どもの心が元気なら、不登校は何の問題にもなりません。多少は人より遠回りをするかもしれませんが、ちゃんと社会に出て働ける人間になります。だから、将来のことは心配せずに、今の子どもの心を大切に考えて、守ってあげてください。親子仲よく、笑顔で過ごせる環境を、家の中に作ってあげてほしいと思います。

子どもの元気さえ保てれば、あとは何とでもなりますから。

「最低限」というお化け

一般的に、親が思う通りに子どもが順調に育っていれば、たいてのことは問題になりません。そりゃ、子どもにいいたいことはいろいろあるでしょうけど、些細なことであれば「ま、いいか」といって見過ごすことができます。でも、それが不登校となると、親はそうも言っていられなくなります。

学校に行かないでどうするんだ。勉強しなくて大丈夫か。毎日家にいて、ゴロゴロ寝ているばかりで、ゲームばかりやって、ちゃんとした人間に育つのかと、心配の種が尽きずにカリカリしてしまうのです。

ところで、家にいて動かない。部屋にこもってゲームばかりやっている。勉強もしない。遊びにも行かない。友達とも口をきかない。親とも話したがらない。こんな状態になった子を前にして親が思うのは、「最低限〇〇してほしい」ということではないでしょうか。

最近は、不登校のこともテレビで取りあげられ、「無理やり学校に通わせなくてもいい」という情報が行き渡ってきました。そのおかけで、嫌がる子に無理に学校に行かせる親は減ってきたように思います。ただ、その反面、家にいて動きを見せようとしない子に苛立ちを募らせ、いつまで見守ればいいんだと悩む親が増えてきたように感じます。

そんな中で出てくるのが、この「最低限〇〇してほしい」という思いです。学校に行けとは言わない。勉強しろとも言わない。家でのんびりしていていいから、「最低限〇〇だけはしてほしい」、そういう思いが湧いてくるのです。

同じ親としてその気持ちは分かります。分かりますが、ここで問題になるのは、何が最低限かということです。「自由にしていいから、せめて外に出てほしい」とか。「ゲームをやってもいいけれど、せめてドリルをやってくれ」とか。中には「〇〇をやったら〇〇してもいいよ」と交換条件を付けて最低限のことをやらせようとする親御さんもいます。

その気持ちは痛いほど分かるし、一概に悪い訳ではありませんが、ただひとつ覚えておいてほしいのは、ここでいう「最低限」は子どもの基準ではなく、親が勝手に線引きした基準だということです。何をもって最低限とするかは、実はとても難しい。もしかすると、子どもにとっては最低限ではなく、とんでもなく高い要求になっているかもしれません。

たとえば、長期間引きこもりをしているような子は、お風呂に入るのもしんどいようです。親の自分にとっては、風呂に入ることぐらい何でもないことでしょうが、その子にとっては、ものすごくハードルの高い難事業なのです。

自分の基準で「最低限」を決めて子どもに押しつけると、それができない場合、子どもは苦しみます。苦しんだあげく、自尊心が傷付き、こんなことも自分はできないのかと、自己否定のスパイラルに陥ります。親は「最低限」といってハードルを下げたつもりでも、それが本当に最低限なのかどうかは誰にも分かりません。

何が最低限かは、親ではなく、子どもが決めるべきことでしょう。そして、たぶん、親が言わずとも子どもはもう知っています。自分にとって何が最低限なのかを。子どもも一所懸命生きているはずなので、常に子どもがやっていることは、自分にとっての「最低限」なのです。親がいわずとも、子どもは自分にできる最低限のことは、ちゃんとやっているのです。

だから、「最低限〇〇をやれ」ではなく、「〇〇できているね」と、子どものいまの現状を認めてあげることが大切です。そういう親のスタンスが子どもに安心感を与え、徐々に子どもの思考をポジティブなものに変え、子ども自身の「最低限」のレベルを上げていくのです。

「最低限」という言葉は、そもそも実体のないお化けのようなもの。子どもを見守る親として、最低限お化けには振りまわされないようにしたいものですね。

心配のコップ

子どもが不登校になると、いろんなことが心配になりますね。勉強の遅れは大丈夫か。ゲームばかりやっていて大丈夫か。規則正しい生活をしなくて大丈夫か。このままずっと家にいて、動かずに、ゲーム三昧の日々が続いて大丈夫かと。

ほんと考え出すとキリがないぐらい、いろいろなことが頭や心に湧いてきて、心配の種の尽きることがありません。ところで、この場合の「心配」なのですが、誰が誰のことを心配しているのでしょうか。

「決まってるじゃないか、親が子のことを心配してるんだよ」という声が聞こえてきそうです。そう、こういう将来の心配事は、たいてい親が子どものことを思ってするものです。子ども自身が、自分のことを心配しているわけではありません。

ここで言いたいのは、心配の対象となるのが「誰の人生か」ということです。それは親の人生ではなく、子どもの人生です。だったら本来、子ども自身が自分のことを心配するべきではないでしょうか。

勉強しなくて将来困るのは子どもです。昼夜逆転して体を壊すのも子どもです。このまま家にこもって、外に出られなくなって困るのも子どもです。そう、子ども自身が自分のこととして、自らを心配しない限り、こういう心配事はすべて意味を失ってしまいます。他人が外からいくらやきもきしても、何も始まらないからです。

私は、人の心には「心配のコップ」があると思っています。そして、そのコップの中には同じ量の心配事しか入らない。もし仮に、親が子どものことを心配して、心配のコップを親の心配で満たしたら、コップの中に子どもの心配が入る余地はなくなります。子どもは自分のことを心配せず、ただ、親から言われるうるさい命令や小言に反発するだけになってしまいます。

コップの中に入る心配の量は一定だから、まず、親の心配事を減らすことが大切です。親の心配が減っていくと、減った分、逆に子どもの心配が増えていきます。このままで大丈夫なのか? ゲームばかりじゃ体に悪いんじゃないか? たまには運動した方がいいのでは? 少しは勉強するべきか? と、自分のことが心配になり、少しずつ自分の将来に目が向いてくるのです。

そして、親の心配がすっかり空になったとき、心配のコップの中身はすべて子どもの心配で満たされます。子ども自身が自分のことを、切実に心配するようになるのです。

「心配のコップ」は、アドラー心理学でいう課題の分離に近いのかもしれません。すべての課題が自分自身のものだと分かったとき、子どもは自らの意志で動きだし、人生の道を歩み始めていくのです。

人を信じるということ

WBC、ワールドベースボールクラシックが終わり、倭国チームは世界一の称号を獲得しました。

予選から7試合、勝ち上がれた背景に、選手たちの活躍があったことは言うまでもありませんが、その選手たちの力を信じ、ベンチから精神的に支えた栗山監督の存在こそ、MVPに値するものではなかったでしょうか。

調子がなかなか上がらない村上選手を主軸で起用し続けるのには、相当な勇気が必要です。準決勝、決勝と、結果が出たからいいものの、もし最後まで調子が上がらずに、倭国が敗退したら、世間は栗山監督を戦犯扱いしたかもしれません。

でも、栗山監督はそれを承知の上で、村上選手を信じて使い続けたのです。万一結果が出なければ「オレが全部責任を取るよ」、そこまでの覚悟があってこその起用だったと思うのです。その監督の覚悟があったからこそ、村上選手は安心してプレーを続けることができ、最後はプレッシャーに打ち勝ち、自分の力を出し切れたのでしょう。

つまり、人を信じるということは、結果いかんに関わらず、信じるということです。万一結果が出なければ「私が責任を取る」、そこまでの覚悟があってこその信じるという行為なのです。

そして、そこまで覚悟できれば、結果の善し悪しに左往されることはなくなります。たとえそのときの結果が思わしくなくても、人に信じてもらえたことは心の中に残ります。そして、次のチャレンジ、そのまた次のチャレンジに、力となって生きてくるはずです。

不登校の子の将来が心配になり、見守ることが苦しくなってくる時期があります。だらだらとゲームばかりやったり、昼夜逆転している子を見ると、この子が自立して、何かを学びだす日が来るのだろうかと疑って、心配になることがあります。

でも、そういう不安がよぎったときこそ、人を信じる力が必要になるのではないでしょうか。結果はすぐに出ないかもしれないけれど、それでも子どもを信じて、見守っていく。確かに保護者として、精神的に相当きつい、胆力を要することだと思います。でも、親に信じてもらえたことは、子どもの心の中で密かな喜びとなり、自信となり、将来の自立につながっていくのだと思います。

結果いかんに関わらず、人を信じて任せること。それこそが最高の人の育て方なのだということを、今回の激戦を通じて、栗山監督は我々に教えてくれたような気がします。

概ね、だいたい大丈夫。

中国に「杞憂」ということわざがあります。

その昔「杞」という国があり、そこの人が「天や地面が崩れ、太陽や月や星が落ちてくるんじゃないか」と心配し、食事ものどを通らず、眠ることもできなくなったとか。そこから転じて、無用の心配をすることを「杞憂」と呼ぶようになったそうです。

不登校の子どもの将来を考えると、いろんなことが心配になってきます。学校に行かずに、ずっと家にいて大丈夫だろうか。勉強を全然していないけど遅れは取りもどせるのだろうか。進学はできるのか。学歴は取れるのか。就職はどうなるか。このままずっと家に引きこもるのか……。悪い想像は際限なく膨らみ、5年、10年、その先のことまで心配になってきます。

目の前のお子さんだけを見ていると、確かにそうなるでしょう。でも、俯瞰してみると、世の中にはかつて不登校になった人で活躍している人はいくらでもいます。通信制の高校や大学に通ったり、バイトや就職したり、中には起業して事業を営んでいる人もいます。私の知りあいにはユーチューバーになって稼いでいる人もいます。だからさほど心配することはなく、だいたいは大丈夫なんですね。

一般的に人間の想像は、悪いことほど膨らんでいきます。杞の国の人のように、ありえないことまで心配すると、最後は病んでしまいます。でも、考えてみてください。交通事故を心配すると外は歩けませんよね。墜落を恐れたら飛行機にも乗れませんよね。私たちは常日頃、心配事はあるものの「概ね、だいたい大丈夫」と思って生きているはずです。不登校も同じで、そんなに悲観することはありません。

確かに「絶対に大丈夫」と確約することはできません。不登校をずっと引きずってしまう人も稀にはいます。でも、そんなことを言ったら、学校に通っている子の将来だってどうなるか分かりません。学校を卒業して、会社に入ってからうつ病になる人も少なからずいるのです。いっとき不登校になったぐらいで人生が終わるはずはありません。ほとんどの場合は大丈夫。学校に行かずとも、子どもはしっかり大人になっていきます。将来食いっぱぐれる心配もありません。

悪いことばかり考えずに、ぜひよいことも考えてみてください。学校に行かず、家にいて文章を書いていた子が小説でデビューし、芥川賞を取るかもしれません。書いていた絵が評価され、画家になるかもしれません。音楽が認められ、メジャーデビューするかもしれません。もちろん、そうなる確率はかなり低いです。でも、不登校でつまずいて人生が駄目になる確率も同じくらい低いのです。

つまり、将来のことは誰にも分かりません。起きてもいない出来事を心配するより、大切なのは、いま目の前に居るお子さんの幸せではないでしょうか。不登校になってどうしようと、親が狼狽え、心配していたら、子どもはいつまでも幸せになれません。根拠はないけど、「大丈夫だよ」といって、お子さんの不安を取り除き、安心させてあげましょう。将来の不安より、いまの幸せを優先してください。

どうやって学校に戻るか。どうやって勉強するか。どうやって進学するか。どうやって生きていくか。親がどっしり構えていれば、やがて子どもが自ら考え、動きだすようになります。「概ね大丈夫」と親が思っていれば、だいたい上手くいきます。子どもは大人が思っているほど弱い存在ではありません。子どもを信じて、ゆったりした気持ちで見まもりたいものです。

「楽習楽歴」を立ちあげたわけ

去年の11月11日に、5人の仲間と一緒に一般社団法人「楽習楽歴」を立ちあげました。「がくしゅうがくれき」と読みます。あえて「学習学歴」と同じ読みにしました。

この社団法人でやりたいことは、子どもの「好き」な学びを応援することです。

具体的に考えているのは、まずデジタルツールを作ること。自分が普段やっている活動を写真や動画に撮り、それをクラウド上に保存しておけるツールです。自分の学びを記録しておけるノートやアルバムみたいなものですね。

このアルバムには編集機能を持たせて、自分の学びのポートフォリオを作って、人に見せられるようにしたいと思います。

そして、もうひとつの取り組みは、子どもの「好き」な学びの分野と、同じ分野の企業を結びつけ、インターンシップや職業体験をできるようにしていくこと。たとえばケーキが好きで、毎日ケーキを焼いている子を、お菓子やケーキづくりを生業としている会社に連れていって、お仕事の体験をしてもらいます。

主な対象者は、学校に行かずに自宅やフリースクール・オルタナティブスクールなどで、自分の好きなことをやっている子どもたち。その子たちを会社に連れていき、実際に仕事の体験をしてもらいたいと思っています。

なぜ、こんな取り組みを始めたか。理由は簡単で、人間は「好き」なことをやっているとき、いちばんその力を発揮するからです

「好き」なことのためには、嫌なことも我慢できます。努力もできます。そして、好きこそ物の上手なれという言葉があるように、「好き」なことをやっていると上手になり、自信がつきます。つまり、好きなことをすることで、子どもの心を元気にし、逞しく成長させていくことが目的です。

不登校の子の多くは、自身を失い、元気をなくしています。そして、親は子どもが心配だから、どうしても学校に戻そうとしたり、勉強させようとします。

なぜ学校に行かないの、なぜ勉強しないの、なぜゲームばかりしてるの、なぜユーチューブばかりしているの。そういうネガティブな言葉や目線が、子どもの心を打ち砕き、元気をどんどんなくしていきます。そのネガティブなループを断ち切って、私たちは子どもに好きなことをやってもらい、それを仕事につなげていきたいと考えています。

社会に出るには学校だけが唯一の道ではない。勉強だけが人間を成長させるのではない。「好き」こそが最大の学びであり、人間を成長させ、社会に出て行く力を身につけさせてくれるはず。そんな想いで、楽習楽歴を立ちあげました。

始まったばかりの取り組みで、今後どうなるかは分かりません。ただ、私たちの思いに賛同してくださる会社があり、現在「不登校生インターンシップ」のプログラムをその企業の人事部と作成中です。

学校だけが人生の道じゃない。勉強だけが成長の道じゃない。好きなことを思いっきりやって、それで社会とつながれる道筋を築いていきたいと思っています。

千里の道も一歩から。まずは目の前の一社から始めていきます。

ゼロをベースに考えてみる。

つい最近、私は一般社団法人を立ち上げました。名前は「楽習楽歴」。子どもたちの「好き」を中心とした楽しい学びをデジタル上に記録して、その学びの成果と企業を繋ぎ、アルバイトや就労に結びつけていくことを目的に立ち上げた団体です。

仲間と一緒に立ち上げ、活動を始めましたが、さて、実際にやってみると、これがなかなか難しい。いろいろやるべきことが見えてきて、課題が山積みであることがわかりました。ここでは具体的に触れませんが、金銭面のことも含めて、わからないことだらけ。先のことを考えると、本当に実現できるんだろうかと不安になり、途方にくれることもしばしばです。

みんなの力をお借りして、夢に向かって動きだした団体ですが、その分、背負ってしまった責任も重く、ネガティブな感情に支配されることもあります。困ったなぁ。こんなこと、果たして実現できるんだろうかと、落ち込んでしまうわけです。

悶々とした時間を過ごし、ひとりで頭を抱えたりするのですが、でも、あるときふと、「別に無理してやらなくてもいいんじゃないの?」という思いが浮かびました。うん、そう、無理してやらなくてもいいんじゃないの。

不登校の問題を解決したいと思い、立ち上げた団体ですが、そもそもこの団体はいままでになかったものだから、もし、私たちが思いを形にできなくても、ただ元に戻るだけのこと。そう思った瞬間、憑きものが取れたみたいに気が楽になりました。

そう、目標地点を基準に考えてしまうと、できないことばかりに目がいって、悲観的になってしまう。でも、どうせ世の中にないことをやっているのだから、ゼロをベースに考えればいい、そう思えたのです。ゼロを基準にすれば、すべてがプラス。マイナスはひとつもなくなる、と。

自分たちにできる小さなことから、こつこつ始めればいい。それが積もり積もれば、大きなことになるかもしれないし、まぁ、ならなくてもゼロに戻るだけだから大丈夫。そう思えたら、心が楽になり、がぜんやる気が出てきました。

そして、このことについて考えるうちに、実は不登校の子も同じなんじゃないかなと思うようになったのです。学校復帰とか、社会に出るとか、勉強するとか、進学するとか、そういう目標地点を設定してしまうと、できないことばかりに目がいって、苦しくなってしまう。あれもできない、これもできないで、「はぁ」となってしまうのです。

でも、ゼロを基準に考えたらどうだろう。ゼロを前提に考えれば、朝起きられた、ご飯が食べられた、楽しそうに笑えた、散歩に行けたなど、小さなプラスが喜びとなって、積み重なっていくのではないか。

そうか。ゼロをベースに考えればいいんだ。そうすれば心が楽になる。心がポジティブになれる。そう思えるようになったのです。

自分の経験を通して、不登校の子の気持ちがちょっとわかった瞬間でした。

子どもと対等に話すために必要なこと。

前回からの続きです。前回「不登校対応の答えは、話しあいの中にある」という記事を書きました。でも、いきなり子どもと話し合おうとしても、相手が応じてくれないことがあります。なかなか本音を話してくれない。無理やり聞きだそうとすると、機嫌をそこねて行ってしまうこともあります。

なぜ、子どもは心を閉ざしてしまうのでしょう。その背景には、「親に対する不信感」があるのだと思います。

子どもの気持ちを聞くためには、まず「人の話を聞く姿勢」が大切です。当たり前のことですが、意見を一方的に押しつけてくる相手に、人は自分の想いを話しません。たとえば怒っているばかりの上司が職場にいたとして、「君の意見を言ってみろ」と言われ、本音を話せるでしょうか。話せませんよね。それと同じです。

まずは「聞く姿勢」が大切です。そのためには、日頃の子どもに対する自分の言動を点検する必要があります。自分は子どもに一方的に考えを押しつけていないだろうか。子どもの主張をわがままと決めつけていないだろうか。子どもに「○○○させる」「○○○させない」と、命令や禁止ばかりを言っていないだろうか。

要は、子どもの気持ちを本気で理解する気があるか、ないかということですね。親の意見はあくまでも親の意見に過ぎず、相手の意見や思いをまずは尊重する。わがままや甘えと決めつけない。その姿勢や態度があって、初めて子どもとの対等関係が築けるようになるわけです。

ところが、これがなかなか難しい。生まれたときから何もできない、泣いてばかりいる子を見ているから、親はどうしても子どもは頼りない存在だと思い、自分が教え、導いてあげなければならないという、上から目線になってしまうのです。

まずは上から目線をやめて、相手を対等な一人の人間として見なし、その子に向きあってみてください。相手の言葉を否定せずに、肯定的な気持ちで聞いてみてください。その上で、いきなり本題に入るのではなく、普段の何気ない会話から子どもとの対等関係を築いていきましょう。

「最近どうしてる?」「なんか面白いことあった?」「どんな音楽を聴いてるの?」「好きなユーチューバーはいる?」「そのゲーム、一緒にやってみたいけど、教えてくれる?」

子どもの好きなことに興味を示し、共通の話題を持つのもいいかもしれません。子どもからいろいろなことを教わるのもいいかもしれません。そういう普段の何気ない会話を重ねるうちに、子どもは少しずつ心を開いて、この親は何を話して大丈夫なんだと思うようになります。

まずは親が子どもに心を開き、相手を一人の人間として認め、尊重して接すること。それができるようになれば、子どもと対立せずに、大切な相談事もできるようになります。

まずは自分の普段の振る舞いを点検することから始めてみる。これが人と円滑なコミュニケーションを取るために最も大切なことだと私は思います。 

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